第三話 戦後第一回目の『両国の川開き』
終戦後、昭和23年頃になると料亭もだんだん復活してきて、お店の数も次第に増えてきました。そんな時期に地元で屋根舟をつくらないかという案が出て、料亭さんで一隻、私ども小松屋で一隻建造することになりました。これが柳橋の戦後第一号の屋根舟でした。この年、8月1日には両国の川開きが復活します。そして、戦後柳橋の全盛時代へと入っていくのです。
戦後第一回目の『両国の川開き』について先代(三代目)の書き残したものからご紹介したいと思います。
昭和23年の三月初旬のこと、戦前に盛大に開催されていた『両国の川開き』を再開しようということになり、柳橋料亭組合長さんから相談を受けた私は、早速、柳橋料亭組合の方、花火師の方、そして舟宿の人たちに相談して花火の復活の準備に取りかかることになりました。
まず、時期については、危険防止の為に潮の干満の差が少ない小潮の土曜日がよいということで8月1日にしようと話がまとまり、それからは許可だなんだと、連日関係官庁に柳橋料亭組合の方、舟宿の方たちと通って、どうやら実現にこぎつけることができました。
まず、花火を打ち上げる台舟をどうするかということになりましたが、これは都の清掃局の舟を借りるという話でまとまりました。
その他にも花火を打ち上げる場所、積み込み場所、観覧舟の位置、舟が指定区域内にはいれる印の旗のこと、警備のことなどたくさんの問題がありましたが、柳橋料亭組合長、副会長の尽力は大であり、舟の責任者だった先代(二代目)や、配船計画の指図をした兄と相談しながら、問題を一つひとつ解決して進めて、微力ながら私も弟も全力を尽くし、どうやら責任を果たすことができました。
そのころの花柳界は、柳橋、芳町、中洲と全盛期で、花火の時は私もはりきって地元の料亭の間口幅に見合うだけの舟を並べ、最高の時は200隻以上の舟を用意したものです。
これだけの舟を集めるとなると、花火の日からさかのぼって二ヶ月くらい前から準備を始めなければ間に合いません。
舟の準備は、まず配船がすむと鳶職に来てもらい、舟の艫(とも)に板をかけます。これは、舟から舟へと渡れる長い廊下をつけるようなもので、飲み物や食べ物などを運びやすくしたものです。
二日くらい前から、何百枚もの座布団を倉庫から出して柳橋のアーチの上に干したり、簡単な台や名札などを作ったりして当日を待ったものです。
いよいよ花火を迎えると、前からお手伝いを頼んでおいた親戚一同総動員して知人と合わせて30人程でお客様に粗相のないよう努めました。
こうして、戦後第一回の川開きは、両国橋から蔵前橋の間で無事行われ、大成功のうちに終えることができました。
その後、川開きと同時に全国花火コンクールが開催されるようになりましたが、今度は打ち上げ場所が両国橋と、もっと下流の新大橋の間になりましたので、浜町河岸では、道路の上に立派な桟敷をくみ、そこで大勢の人が花火を見物するようになりました。
ちなみに――これは昭和33年『両国の川開き』プログラムに掲載していた小松屋の広告。しかも母の手書きのもののようです。
お話の中ででてくる、観覧船の様子は「第一話」の写真でもごらんください。
当時の慌ただしくも、ワクワクする様子がおわかりいただけたのではないでしょうか。
そして昭和36年の夏を最後に『両国の川開』は中断することになります。